ESSAY
『舌の意味——ジョルジュ・ルオーについて』

アンドレ・マルローは「ルオーの新作についての覚書――絵画における悲劇的表現をめぐって」[1]の中で、ルオーとドーミエを次のように対比する。「……ルオーとドーミエを近づけて扱うのをよく見かけるが、その度ごとに唖然とした感を抱く。なぜならこの二人の画家は、私には全く正反対の立場に思えるからである。ドーミエにとっては世界は一つしかない、人間の世界があるのみである。[……]個別な世界に、個人的なあるいは職業的な世界に、自分の限界をおいている。彼はモデルを翻訳しようと欲する。そして翻訳することによってモデルを征服する。[……]ルオーにおいては、モデルは存在しない。モデルは彼にとっては一種の可能性であり、彼のエクリチュールが自由に創り出すものである。」リアリストで風刺画家として名高いドーミエ。彼を代表するメディアであるこの風刺画(カリカチュア)とは、政治的/社会的な変革を促す尖鋭的な手段であった。それは既存の力に抗するための手段(ツール)としての芸術であり、情報戦・心理戦・世論戦において極めて有効な「武術」(マーシャル・アーツ)、すなわち力を操る術なのである[2]。たとえば、彼の有名な作品に、フランス国王ルイ・フィリップの顔を洋梨に見立て、描かれたとされる絵(『ル・シャリヴァリ』紙に掲載)がある。数多くの美術やマンガ入門書で「デフォルメ」の良例として紹介される絵であるが、このように描かれた所以はなにも、顔と洋梨の形状の、その類似性からだけではない。それは、ルイ・フィリップのイメージと洋梨(ポアール[poire])が意味するところの『うすのろ』というイメージが、あまりにも似ていたから(あるいは、そうあることを望まれたから)描かれたのだった。つまり、ここでおこなわれた操作とは、単純な形態のデフォルメだけではなく、イメージと語義の転移であり、重要なことは国王と洋梨という、一見かけ離れたものの「置換可能性」を提示したことにあるといえる[3]。一般的な了解にもとづく国王と洋梨のイメージのように、置換されうるイメージとイメージの距離=ポテンシャルが大きければ、その和(力学的エネルギー)は、より一層大きくなる。ドーミエによる軽妙な語り口は、だからこそ民衆を惹きつけたのだった[4]。こうしたドーミエの放つカリカチュアを含めた革命派の攻勢=カウンターを押さえるために、ルイ・フィリップ王政は言論弾圧法(九月法)を発令することとなる。しかし、それも虚しくこの王政は崩壊の運命をたどるのだった[5]。強大な力は、それと同等の反発力を生じる。この後、発足した第二共和政の臨時政府は、まるで、こうした力学を恐れるかのごとく、生存権・労働権・結社権などの諸権利を民衆へと移譲(分散)することとなる[6]。ルイ・フィリップ王政による圧政後、民衆の暮らしへと視点を移したドーミエだが、同様にルオーもまた、道化や娼婦などといった民衆を描いた画家である。くわえて、ドーミエはガラス職人の父をもち、他方ルオーもステンドグラス職人の父をもつのであった(ルオー自身もステンドグラス職人である)。このルオーに対し、マルローはこう述べる。「……ルオーは見る人ではなく、存在する人である。[……]人間の苦悩によって神に走り、世界との調和が永遠にできないことを知る唖人の作品、あるいはマゾヒストの作品と呼ぶことができるもの、それがルオーの作品である」と。たしかにルオーの作品には、ドーミエのような饒舌さ(おおよそ誰しもが共感しうる、ある種の観相学的な描写)はない。描かれた人物は、ただグロテスクな身体を晒すのである。その瞳は閉じ、あるいは潰され、こちらを見返すことはない(仮に瞳が判別出来たとしても、視線は観客から、ほんのわずかにそらされ、まるで「人形」でも眺めているかのように、視線が重なりあうことはない)。ロートレックの作品に登場する娼婦や道化たちの、観るものを意識し挑発する艶かしい視線=媚態とは異なり、ルオーによって描かれた人物たちは、マゾヒストのごとく一方的に観るものの視線に晒されるのである。ジル・ドゥルーズによれば、マゾヒストにとって自らを縛る法は、このうえない厳密な適用によってこそ、当初期待されていたものと逆の効果を生む。鞭で打つことは、勃起を罰しあらかじめ禁止するどころか、さらに勃起を誘発し、より堅牢なものへと変貌させてしまうのである。自身を緊縛するはずの法を、こうして器用に転覆してみせるのだ[7]。ルオーの作品においてもまた、こうしたある転覆がおこることはよく語られる。その転覆とは、人間の欲望を背負わされた道化や娼婦と、人間の贖罪の責を負うキリストとの両者のあいだに顕現する。一般的に、ルオーの作品において指摘される「聖性」や「宗教性」は、そこにこそ顕われる。そして、マゾヒストとルオーの作品、この両者の相似性、つまり転覆が許される条件とは、ともに原罪や欲望といった、本来的に抗することのできない「法」(法則)のもと、すでに罰せられている(受苦性の行使)という条件なのである。「宗教的なもの」の核心こそ、語りえぬ聖なるものの体験である[8]とルードルフ・オットーはいう。いいかえれば、この「宗教的なもの」とは、理性的には受け入れ難いものを、感覚がすでに受け入れてしまっているという事実(予覚=直観)にこそ裏付けられている。こうした体験は、合理的に把握不可能であるかぎり、つねに受動的に非合理的な諸感覚へと開かれるしかない。たとえば、感覚器官の中でも、舌は閉じることも、塞ぐことも出来ない(たとえ巻くことは出来きたとしても、舌はむき出しの器官として辛苦に触れ、どうしてもこれを味わってしまうのである)。ドーミエの作品が、観察者の饒舌さをもつのであるならば、唖人ルオーの作品は、いわば絶句による饒舌の廃棄である(知ってのとおり「饒舌さ」とは、本来的に感覚器官としての舌の機能を表すことばではない)。マルローの「ドーミエにとっては世界は一つしかない、人間の世界があるのみである」という皮肉は、ここにこそ向けられる[9]。ドーミエの風刺に描かれる(それが世相や風俗への風刺であったとしても、だからこそ)社会的な一般性(それは往々にして観察者のイメージの投影にすぎない)こそが形づくる人間の姿。ドーミエの置換は、あらかじめ与えられた社会的な了解(法)にもとづき、それを構成している要素を操作しているにすぎないのに対し、ルオーの転覆は、法(法則)を酷使することにより、結果的に、その法が転覆してしまうのである。それは「聖性」といった、絵画史の中で連綿と受け継がれるテーマを、低俗でグロテスクな身体をとおし描くといった手法にあらわれているだけではなく、ステンドグラスのように、光から、かたちづくられるはずのイメージを、不透明で物質感のある絵具で、絵画自身の技法的ジレンマを、ことさら強調するように描くといった技法的側面からも伺い知ることが出来る。つまりルオーは、画題における慣習法〈キリストの復活という奇蹟を描くためには、まずキリストの死体を描かなければならないように〉と、画材における用法〈光を描くとき、逆に、生々しい絵具の盛り上がりが出来てしまうように〉とを「厳密に適用」しているのだった。そして、なにもよりも雄弁に語ることだけが、現実に対して贖うための手段ではないと、ルオーは教えてくれるのである(マティスにおける「色彩の優位」とピカソの「形態の優位」という、絵画史上の対立に組み込まれることのなかったルオー)。たとえば、巻かれたこの舌が、なにゆえ噛み切られないのだろうか? それは味覚という知覚をつかさどるこの器官が、眼にも、耳にも、口にも、代え難いもの=置換不可能なものだからである(置換不可能なものは、いかなる力をもっても排除できない。それだから、政治性は、むしろルオーにこそある)。不定形に変形する肉塊としての感覚器官。口の中に鎮座するこの器官は、噛み切られることなく、ただ存在するのである。

[1]『アンドレ・マルロー「ルオーの新作についての覚書――絵画における悲劇的表現をめぐって」の翻訳と解題』堀田郷弘、城西人文研究、1986年

[2]講道館の創始者であり柔道家の嘉納治五郎は、「無手或は短き武器をもって、無手或は武器を持って居る敵を攻撃し、または防御するの術」であると柔術を定義した。なお、剣術や合気道において重要なのは「足」であるとされる。それはつまり、相手との「位置関係」(間合い)である。

[3]そもそも権力という概念は、17世紀、古典力学の発展を背景として生み出されたといわれる。たとえば、権力の顕われでもある「遠近法」は、ある視点を定めることにより点在する事物に対し、階層順序、空間的序列を与える。これは逆説的に、点在する事物の階層順序、空間的序列が、ある視点へと見る者を誘導するということでもある。物体の位置エネルギーと運動エネルギーの和から力学的エネルギーが求められるように、この視点(あるいは視点を定める権力)も、事物の布置(階層順序、空間的序列の総体)から求められるのである。位置エネルギーと運動エネルギーの大きさが、力学的エネルギーの大きさと比例するように、複数の事物間における、階層順序、空間的序列の距離(落差)が、その眺めを担保する権力(視点)の大きさを物語る。無意識化された権力の存在は、こうした事物の布置を変えるとき、はじめて顕在するのである。

[4]「置換」という行為が「力学的エネルギー」の発露であるかぎり、その抽出は困難を極めることとなる。なぜなら置換後のイメージは、すでに「結果」でしかないのだから。E.H.ゴンブリッチは、その著書『芸術と幻影』の中で次のエピソードを述べる。「仏語の《ポワール(梨)》には「うすのろ」の意があり、フィリポンが主宰する諷刺新聞は国王を《ポワール》として絶えず笑いものにし続けたので、発行者である彼はついに出頭を命ぜられ、重い罰金刑が課せられるはめになった。有名なこの一続きの画面は、戯画化の過程を示した一種のスローモーションによる分解図であって、彼の主宰紙に釈明として発表されたもの。等価を口実にして連続画が構成されているわけで、一体どの段階でわたくしは罰せられるのか、と問いかけている。」

[5]ドーミエは、1835年、言論弾圧法(九月法)が発令されるまで、風刺雑誌『ラ・カリカチュール』や日刊紙『ル・シャリヴァリ』において、数多くの石版画(リトグラフ)を発表した。しかし同法発令により、逮捕・投獄される。ドーミエはこうした経緯から当時のパリの民衆の暮らしへと視点を移し、道化などといった風俗風刺画を描くこととなる。

[6]第二共和政よって言論/出版の自由が与えられると、200以上もの新聞が発刊された。

[7]それゆえ、マゾの語源となるザッヘル・マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』は、その中の登場人物が、その快楽をえる条件としての契約(法)を、相手と取りまとめることから始められる。ジル・ドゥルーズは『マゾッホとサド』という著作において、法を無化(拷問によって法に対する解を量産)し超克しようとするサドのイロニーと、法を厳密に遵守することによって(転じて)嘲弄するマゾッホのユーモアとを対比する。

[8]ルオーと同時代を生きたドイツの宗教哲学者であるルードルフ・オットーは著書『聖なるもの』の中で、この非合理的なものとしての聖性を「ヌミノーゼ」という概念のもと包摂した。この非合理的なものは、16世紀後半からプロテスタントにおいて、布教を目的とし敬虔感情だけを中心に合理化、理論化する中、「聖なるもの」から抑圧され排除されていった。「ヌミノーゼ」は「聖なるもの」という概念の使用において、倫理的、道徳的なニュアンスを分離し、聖なるものの本源的な次元をしるしづけるため、オットーによって、ラテン語「ヌーメン(numen)」(神霊)から導かれた造語である。

[9]さらにマルローは、ドーミエに対し、先の引用に続けてこう述べる「ドンキホーテからサンチョに至るまで、つまり神々の弱さを自らの夢によって償うものから自分自身によってそれを償うものに至るまで(裁判官やブルジョアはこの内に含まれる)そうした人間の世界をドーミエは描く」と。実際、ドーミエは「ドンキホーテ」を好んで描いた。「ドンキホーテ」の風刺のレトリックは、狂気をもって自らが中世的価値観の体現者(騎士道物語の主人公)として振る舞うことからもたらされる。キホーテが現実とかかわることにより、様々な不具合(解)が展開されていく。こうした主人公の振る舞いは無論イロニーと化す。

●ルオーの作品は、現在開催中の『モローとルオー[聖なるものの継承と変容]』(松本市美術館にて、2014年3月23日まで)で観ることができる。

BRANCHING vol.08 | February, 2014.
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『誓いのキスは永遠に*——結婚と恋愛(それと芸術)について』

結婚とは、すべての意見を共にし、しかしすべての男が意見を異にするところの、一つの主題である。——オスカー・ワイルド
いったい「結婚する」ということは、いかなることだろう?このような突飛な問いに対し生真面目に応答するならば、具体的で個別な事例(=恋愛)という経験を、一般化されうる定式(=結婚)へと結びつける、その行為であると、とりあえずはいえよう。それならもし仮に、この「恋愛から結婚へと至る」プロセスを真逆にし「結婚してから恋愛をはじめる」ということは、はたしてありえるのだろうか?換言すれば、既存の定式を先取りし、特殊な事例を事後的に獲得できるか? というこの設問は、なるほど論理的には筋がとおるように思える。けれども、この問答に符号するかにみえる「お見合い」という事例でさえも、おおよそ想像しうる男女(あるいは同性同士)の出会いとは異なるものの、特殊な事例から定式へと至るプロセスになんら変わりはない。なぜなら、お見合いは、恋愛と同じくデートをかさね、互いの相性をはかることが許され、だからこそ無慈悲にもお断りする(される)可能性さえも担保されている。ここにおいても恋愛と同様、破談や破局は確率論的に存在しているのだ(結婚にしても、それが「定式」ではなく「ある過程=経験」だと捉えれば、たとえば、離婚が存在する)。そもそも、いくらその先に結婚という合意が約束されていようとも、あくまでも恋愛という、こうした確率を超えたある特殊性(事件性)が体験されえなければ、その合意が主体的に位置づけられることはまずありえない。このプロセスを経てこそ、はじめて、出会いが奇蹟や運命だったと感じ、信じられるのだ。恋は最も変わりやすいと同時に最も破壊しにくい不思議な感情である。——アンリ・ド・レニエ「結婚は定式である」という仮設においても、それが定式である以上、(二人以上の)社会的な共有を前提としている限り、こうしたプロセスを省くことなど不可能だといってよい。たとえば、結婚式が承認の場であるというのはいうまでもなく、この場で取り仕切られる「誓いのキス」というパフォーマンスの存在にこそ、それは顕在化している。この行為は、当事者同士がそれぞれ帰属する集団に対し、ある出来事(事件)を再演することによって、(経験を共有させ)あらためて彼らを説き伏せるための、いわばプレゼンテーションなのだといえるだろう。二人が結婚するということ——それがいくら事前の承認をともなっていたとしても、にもかかわらず、こうした抽象性が実感をともない了解されるためには、(集団を構成する)ひとりひとりへ、あくまでも個別な経験、「誓いのキス」として目撃され、体験しなおされる必要があることを示している(こうして社会は、事件に対する事後的な了解を求められるとともに、説得されざるをえない状態を保持することとなる。集団は、この二人(の事件)に牽制されるのだ)。くりかえせば、定式は、その抽象性とは背反し、そのつど特殊な事例(説得材料)を要請することとなる。つまり、一般的であるという自明性や正統性は、論理的な構造に依拠するのではなく、むしろ、破局や離婚(あるいは、それらを超えた)という特殊性、今後、発生するであろう事件性を、積極的に組み込むことによって裏付されているのだ。いいかえれば、社会や集団は(いわゆる道徳によって規定されるのではなく)、こうした特異点 ——再来する「誓いのキス」—— においてこそ、いまここに、かろうじて繋ぎとめられている。恋人同士の喧嘩は、恋の更新である。——プビリウス・テレンティウス・アフェルもし仮に、あらかじめ措定された抽象的な定式が、一般に回収され了解できるという目的において、具体的な事例をも規定してしまうのであれば、実在的な根拠は指し示されることはない(まるで、枯れてしまった恋のように「誓いのキス」は再来しえない)。しかしながらこのことは、逆説的に、恋愛攻略本が巷に溢れ、多くの恋愛メソッドが謳われ(つまり定石はないのである)、いまなお芸術という仮構において、具体的な(芸術)作品が制作=供給され続けている理由を表している。さて、「恋は盲目」というけれど、作品をつくる上で、芸術家は自身の経験や感覚に対し、盲目であってはならない(この点で芸術家は勘違いされている)。たとえば、画家が眼前に広がる光景をカンヴァスへと写そうとするとき、絵具をチューブから捻り出し、パレットの上で練りあわせ、絵筆やナイフでカンヴァスに擦り付ける。一見自然にみえるその身振りも、いいかえれば、光が網膜に投影されるという現象を、絵具やカンヴァスといった、より即物的な物質へと翻訳する行為なのだ。つまり「描く」ということは、暴力的にも、ある事象を抽象化し、別の事象へと変換するプロセスなのである。このように、芸術家にとって制作し発表すること、つまりプレゼンテーションするということは、むしろ自己解体を意味し、いったん解体されて現れる別の自己を、再構築するために行われる必須のプロセスである。オートマティカル(無意識にも光景を映し出してしまう眼のよう)に、無限に引き出される現象に、盲目的に身を委ねていては、眼前にひろがる世界を再構築することなど出来はしない。自己の(感性の)中心性から抜け出してゆくこの経験は、盲目的ではないがゆえに、あらかじめ位置を確保されていない。そして、いかなる主体にも属さない(だからこそ作品は、他者によって「観られる」のである)。それだから芸術(の経験)は、見慣れてしまった世界から、あらたな認識が曳き出され ——まるで運命の恋人を見出したときのように——自身が生まれかわれるその契機となりえる。この条件において「誓いのキス」は再来するのだ。

*本稿のタイトルは、『誓いのキスは突然に☆』という株式会社ボルテージによる「乙女ゲーム」から借用した。なおゲームの説明には「『1ヶ月だけ夫婦のフリをしてくれ』と突然頼まれたアナタ。最初はイヤだったニセの夫婦生活。けれど、毎日いっしょに過ごすうちに互いに惹かれあい!? 偽りから始まる本当の恋…」とある。
●本稿は、2013年11月にグレイスフル芸術館において行われた展示における筆者のステートメントへ加筆/修正したものである。

BRANCHING vol.07 | December, 2013.
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『絵画の無意識——あまりにも具体的な技術の覚書き』

ジョルジョ・ヴァザーリいわく油彩の祖たるヤン・ファン・エイク。そのあまりにも有名な絵画の構築プロセスといえば、白く明るい平滑な面(白亜地を施した木板[1])へ薄く透明な絵具を幾層にも重ねていくというものである。それまでヘゲモニーを握っていたフレスコ画には到底表現することできない艶やかな色と深淵な陰影を携えた画面は、当時の人々をさぞかし驚愕させたに違いない。しかし、媒材の存在しないフレスコ画と違い、樹脂性媒材で練られた油絵具がもたらす表現は、光沢のある画面(濡れ色)と、描かれたものの立体感と存在感を際立たせる繊細な陰影だけにとどまることはなかった。例えば、明度の高い部分は、おおよそ下地の明るさに由来する。正面から侵入した光が透化性の絵具の層を通過し、下地の白さによって(まるでライトボックスを背にしたかの様に)折かえされ、突き上げる様に再び表面へと現れる。この時、光は画面の最下層から、透明な絵具層の織りなす色彩を一気に圧縮しながら、津波ごとく手前へと押し寄せて来る。これは、建築の開口部に充てがわれた透明なガラス越しの光がもたらす「ステンドグラス」(先行し既に存在していた技術)的効果である(ただし単なる模倣ではなく、垂直に積層化された色彩の混色方法に加え、文字通り建築物の天井や壁にあらたに開口を穿つことなくそれを再現したことは、あまりにも革新的だ)。こうして得られた色調とコントラストがファン・エイクの絵にフレスコにはない「重厚さ」を与えている。しかしながら時代を経るとともに、この生産プロセスはティツィアーノ・ヴェチェッリオをはじめとするヴェネツィア派によって覆されることとなった。ファン・エイクの積層構造からなる色彩(それを可能にする下地の段階で綿密に練られた ——ただし硬直した—— 構図も)は拒絶され、暗い赤褐色の有色下地へ、薄い絵具で大胆に、かつ躍動的に粗描され(あるいは画面上で何度も描き直され)る。さらに、ファン・エイクにおいて繊細に構築された最上部の明るい部分は、不透明な絵具で厚く盛り上げ塗りたくられた(インパストされた)のだった。明るい下地から色彩による描写を進め、最終的に平滑な画面を作り上げたファン・エイクとは、ある意味、真逆のプロセスを踏んでいる。彼らが、海運国家たるヴェネツィアにおいて身近で日常的な素材である帆布(麻布)を使ったこと、さらには木枠とそれとを組み合わせた、海辺裏の湿度変化にも耐えうる「通気性の良い構造体」(ファン・エイクが多用した木板は湿度で反り上がってしまう、継いだ板であればなおさらであった)を使用したことも記さなければならない。文字通りの外的環境に適したのはもちろん、これにより板という物質感ある支持体から解放され、画面は巨大化を遂げたのだった。これら破壊的とも言える革命的発想転換により、大画面にも関わらず、彼らが短期的に絵画を仕上げられたことは想像に難くない。生産効率の良い技法がメジャーとなるのは目に見えていた。事実、「カンヴァスに油彩(Oil on Canvas)」という今日まで続くスタンダードの素地を整備したのだった。ファン・エイクのイメージを支えた技術が「ステンドグラス」であるならば、木枠から画布を外し、まるめるてコンパクトに運ぶことの出来たティツィアーノのそれは、当時、一般的に用いられていた「タペストリー」[2]であったと言えよう。「総合芸術」を標榜し、既存の技術体系を統合/折衷する「建築」と同じく、「絵画」や「平面」という自明のごとき一言で言い表わされるものも、実は「ステンドグラス」や「タペストリー」のように「工芸/応用芸術」という他のジャンルへと分別されうる様々な生産プロセスが持ち込まれ、統合/折衷されていた。このように「絵画」のもつ空間は、構造的にも技術的にも多彩なコンテクストが絡み合い、政治的闘争が繰り広げられる場なのである[3]。おおよそ「平面」という語感から想起されうる平坦で静寂さえ感じるイメージはそこにはない。具体的な物質が異なる技術によって順序だてられ、あるいは暴力的に接合された空間なのである。前述のようにティツィアーノは、それまで建築の壁面に文字通り一体化していたフレスコ画を、ファン・エイクの体系化した油彩を通過し、「タペストリー」というモデルへ軽やかに接合し得たかに見えた。しかし、その「タペストリー」へ、なかば力ずくで油彩の技術を捩じ伏せたこれらの作品は、月日の経過とともに油絵具特有の「絵画層の透明化」という事態、いわばインフラの反乱によって、下地の色が突出し無惨にも画面全体を暗変させるざるを得なかった[4]。 いうまでもなく、各々の技術は技術ごとの、こうした特性を予め ——もちろん有用性だけではなく限定をも—— 宿命づけられている。ちなみに、絵画技法史において、かつてフレスコ画からヘゲモニーを奪取した油彩画のその内に、再びフレスコ的技法を引きずり込んだのが、19世紀イギリスのミレイらラファエル前派であった。フレスコ(フレスコの語源はイタリア語で「新鮮な」という意)は、水で解いた顔料を生乾きの漆喰へ塗り、漆喰が乾燥すると顔料と分子結合を起こし定着するという仕組みであり、他方の油彩は、樹脂の媒材で顔料が練られ、それがゆっくりと酸化することで媒材を介し画面に顔料が定着する仕組みである。一度、漆喰の水分が蒸発してしまうと、その上から描画することは出来ない。それだから、乾かないうちに描ける範囲で下地を充填させるという、描かれるイメージの分節とは異なる次元の分割設計 ——リテラルに身体に束縛された限定性—— を強いられる。そうした意味において、油彩と違った高度な構想力と再-組織力が要求されるのだ。これが媒材を介さないフレスコの技術的特性である。ラファエル前派の採用した生産プロセスは、油彩にも関わらず、これと同様の湿った白い下地が乾かぬうちに絵付けを施すというものだった。彼らに影響を及ぼし、北欧信仰やドイツ的感情とをイタリアの形式の上で統合しようと試みたルーカス同盟は、ジョットやフラ・アンジェリコを参照しつつ共同で壁画制作をしていた。主題と形式の一致、あるいは統合を目指した ——アカデミズムの指標たるラファエロよりも以前の作品が持つプリミティヴさにそれを見出そうとした—— だけではなく、フレスコと油彩との統合というある種の「混合技法的着想」は、まさしくルーカス同盟を通過し得られたものであった。さらには、七宝(クロワゾネ)の隈取りよろしく、肉厚の輪郭を色面と色面の間に置き相互の鮮やかな色面が混ざり合い濁らないよう配置もしている[5]。極めて繊細に組織化された技法によって獲得された画面は、当時の主流であった褐色の有色下地を施した絵画(その下地に表面の絵具が引きずられ画面が褐色に染まっていた)と一線を画し、まさに七宝の如き、細かな線に縁取られた色面と明瞭なイメージ、何より圧倒的に明るく鮮やかな色彩表現を可能としたのだった(しかし、過剰なまでの緻密さを要求するこれらの技法は、それに巧みなミレイでさえも年に二作ほどしか制作出来なかったし、ロセッティに至っては自らの主題へ重きを置くため、早々にこの技法を放棄したという)。光輝く画面を作り出したラファエル前派が、殊にファン・エイクをはじめとする初期ルネサンスや15世紀の北方美術を参照していたということは、あらためて言及するまでもないであろう。

[1]白亜と膠を用いて楢の木板の節目を覆い、平滑な面を作るとともに、表面を磨き上る摩擦熱で媒材(バインダー)の膠が表面に現れ光沢を持つ。なお、白亜地が「絶縁体」と呼ばれ、油彩の油脂分から支持体を守り、腐食を防ぐ機能を持っていたことを忘れてはならない。

[2]「タペストリー」は、高価(大勢の職人たちによって長い年月を掛け織上げられ、上質のウールや絹、金銀糸を使い、貴族らのステータス)だったが、何より「壁掛け」として、石造りの城内の暖をとるという具体的な機能を担った生活用品でもあった。教皇レオ十世から依頼され、ティツィアーノの5歳年長のラファエロはタペストリーの設計をしている。それは、システィーナ礼拝堂での儀典の際、既に存在する壁画(ミケランジェロ作)の下へ飾られ、その意味を補完するため ——もっといえば、後からつけ加えられる装飾が、既存の意味作用を組み直し、全キリスト教徒の代表者であるレオ十世を讃える、というもの—— に使用された。なお、そのデザイン画は『ラファエロのカルトン』として知られている(よく語られるミケランジェロとラファエロの軋轢と、グラウンドである壁画を、装飾であるタペストリーが飲み込んでしまうという企みとの関係性は、一考に値するかも知れない)。

[3]「政治的闘争」については、画布を想起させるロープや木枠を模した枝といった「絵画」におけるインフラをリテラルに露呈させた作品、あるいはシンプルな図をひたすら繰り返し、あからさまに、ナイーブで低落な単純労働的作品を製作したクロード・ヴィアラら「シュポール/シュルファス」を想起させるかも知れない。確かにこの運動は、1968年の「五月革命」の気運にリンクしていた。

[4]見事インフラを調停し、ティツィアーノを今一度、ファン・エイクへと接合せし得たのが、17世紀フランドル派のピーテル・パウル・ルーベンスである。ルーベンスは堅牢なグレー(無彩色)の下地と、明部の不透明な厚塗りと暗部の半透明な薄塗りを巧みに使い分け、最後に「グラッシ(透明層)」を重ねることにより、画面全体を融合した。

[5]ラファエル前派には、「アーツ・アンド・クラフツ(美術工芸)運動」の旗手であり、近代デザインの父でもあるウィリアム・モリスがいたことは周知の通りだ。ルーカス同盟が芸術(壁画制作)という共同作業を通じ宗教的共同体の形成を目論んだ(彼らが「ナザレ派」とも呼ばれた所以である)とすれば、モリスは「モリス商会」という営利組織を形成することで、芸術家による共同体とその成果物による社会変革を目指した。こうした思想的な流れは、後のバウハウスへと受け継がれることとなる。

BRANCHING vol.06 | September, 2013.
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